本来自分が出て行く必要のない場に相手のたっての依頼で出て行けば、パーティーだのなんだのと引っ張り回され、肝心の交渉は先に進まないまま、期限の今日を迎えていた。
退屈な待機の合間を外出で過ごすのにも飽きて、呼ばれて出る以外はホテルに篭って三日目になる。
「…それは先方次第だな」
「これが決まれば、帰れるんだから、そこは何とか納得してくれよ」
目の前で朝食のソーセージをほおばりながら訴える男は、のんびりとコーヒーをすするゲルトに、暗にお前も食えと自分の皿を差し出す。
「ここで妥協しても先が思いやられるだけだぞ、マシュー」
お節介な男の皿を手のひらでやんわり押し戻しながら、退屈な紙面に視線を戻す。
ホテルに置いてあったバイクや車に関連する書籍は既にあらかた読みあさってしまい、今朝からは仕方なく陳腐な三文小説に手を伸ばしていた。
好きだの嫌いだの、別れるだの死ぬだのといった単語が上滑りする陳腐な芝居を目で追いながら、ゲルトはふと青年の事を思い出す。
思えば、あの後送っていって、その後連絡を取っていない。
「お…勝ったんだな」
つけっぱなしのテレビの正面で勝手に朝食を取っていた男が声をあげる。
「やるじゃないか、ヘルマンの奴も」
名に反応して顔を上げると、画面一杯に青年が遠征に出かけたレースの様子が映し出されていた。
どうやらぶっちぎりで勝利したらしいことが興奮した解説者の口調で見てとれる。
「車体の方は順調な仕上がりみたいだな」
ゲルトの顔が自然と顔が綻ぶ。
今回テストに使われた車体は次に自分にも使われるものだから当然だ。
「さて、時間だゲルト、いくぞ」
「あぁ」
そろそろこの憂鬱な外回りの最終ステージだった。
今日決まれば、これで帰れる。
そう思うと、少しだけ気が晴れた。
ゲルトは読みさしのペーパーバックをベットの上へ放ると、身だしなみを整える為にレストルームへ向かった。
髪を撫で付け、準備が整うと、ワードロープから上着を取りだして袖を通す。
『…走りたい』
聞き慣れた声が耳を打つ。
発せられたその声に眉を寄せてテレビの前に戻ると、いつのまにか舞台は表彰台の上に切り替わっていた。
画面の中には数日前別れたばかりの見慣れた顔が喜びに輝いている。
白い花束を受け取った青年は、ありがとう、と答え、小さなカップを携えた若い女性と軽く抱擁を交わした後、更に続ける。
『ただ、走りたいです』
マイクが拾うその言葉が、お定まりのインタビューへの答えであることに気づくのに、少し時間がかかった。
面食らったインタビュアーが黙ってしまうのと同時に、画面がカメラのフラッシュで真っ白に染まり、まばゆい光に青年の姿が掻き消える。
「………………」
「どうした?」
ブツリという音と共に男の手でテレビの電源が切られ、そこで漸く、白くなるまで拳を握りしめていた事に気づいた。
「……何でもない」
これは青年の思う、彼の望みだ。
自分には関係ない。
なのに、受け止めた己の腹の底が重くなるようなこの物狂おしさは何だ。
胸の奥を掴み締められたような、そんな痛みが指先まで駆け巡るこの気持ちを表す言葉なんて、俺は知らない。
ゲルトは握りしめた拳を緩めながら、己の手に残る自らの爪の跡を確認する。
同じ様に青年から己の体につけられた爪の跡は既に癒え、消えてしまってもうない。
「………………」
今はただ、会いたい。
酷く青年に会いたいと、そう思った。
<終>
ゲルト壊れててすみません…
[184] ヘタレ班長 (2008/09/15 Mon 08:06)